ミドリアゲハ |
しんとした夜の気配。 いつもの通りふたりで夕食をとったあと、たわいもない話をしながら皿を洗う。それがすめば居間に戻ってきて、残ったワインを飲みながら、またたわいもない話。 正確には、ミレイユがひとりでワインの瓶を空けるのを眺めながら、霧香はお茶をちびちび飲んでいた。 「霧香…、一緒にお風呂入ろうか?」 ふと、微笑み混じりで。ミレイユの細い白い指がグラスのふちを撫でる。 グラスの中は、少し昏い赤。半分も残っていないのを目の端で確かめてから、今度は瓶へと視線を走らせる。霧香はぼんやりとしているようで、その実的確に状況を見て取った。 酔ってる。 瓶はもう空だ。だとすればかなり酔ってるはずだ。 ミレイユの酔っ払いかたは、ある意味かなりタチが悪い。 会話が滞ったりすることもないし、終始ニコニコして、むしろ気持ち悪いくらい上機嫌だ。そして、気がついたら、酔っ払っている。それもかなり。 他人のすることに口を出すタチではない霧香とふたりでいると、止めてもらえないので事態はわりと頻繁に切迫する。 ふたりで暮らすようになって、霧香の方が先にそれに慣れたせいか、今のところ大きな事故は起きていないが、ふたりで荘園から帰って来たあとその頻度はさらに増えているように思う。 そしてそんなときは、普段どこに隠しているのかと思うほどに不思議な懐きかたをして、これはこれで、ミレイユの無防備な態度が嬉しいところだけれど、やっぱりどこか、恐ろしい気もする。 そう思う霧香のほうもちょっと考えすぎかもしれないけれど。 「ミレイユ…そろそろ寝る時間じゃないかしら」 だいいち、今お風呂に入ったら、ミレイユが死んじゃうかもしれないでしょうが。 とは思っていても、もともと指図する立場にないと考えている霧香には、それ以上言うべき言葉も見つからない。 うっかり『大丈夫?』とも聞けない、霧香にしてみれば最近はもどかしいような立場。 そっと席を立つと、グラスをもてあそぶミレイユに身を寄せる。 相変わらず上機嫌のミレイユは、間近にやってきた黒々と深い瞳を、じっと覗き返した。 恐れ気もなく白い腕を伸ばして、頼りなげな薄い身体を、椅子に座るおのれの膝の上に引き寄せる。されるままの霧香に、両の腕を回して、ふんわりと抱きしめた。 のどの奥でする、綺麗な笑い声。 「ミレイユ…」 なあに?と淡いブルーの瞳だけで声にならない返事を返しながら、温かい指先で囁く頬を撫であげる。 「ミレイユ」 もう一度繰り返すほのかに桜色の口唇に、今度は返事を返さず、ゆっくり口唇を重ねた。 数え切れないほど重ねた覚えのある接吻でも、酔ってないときの切ない真剣さとは違う、蕩けるような甘さで危うい感覚。 深く触れて、離しぎわに舌を伸ばして口唇をなめる。敏感に反応する霧香の口唇が震えて、吐息をつくかつかないか、甘くほころんだ隙間に、するりと熱い舌が滑り込んだ。 今度は濃く舌を絡めて、霧香の薄い舌が迷いながらやがてミレイユの誘惑にほどけていくのを楽しむ。 霧香にしてみれば、ミレイユの口唇は、たった今まで口にしていたワインに熟れて、熱く腫れている。なによりも霧香の舌には少し苦い味が、いつもの口付けとは違う痺れを呼び起こした。 ゆっくりと融けあい、少し離しては軽く音を立てて口付ける。 そしてまた貪りあって、まるでとっておきの遊戯のようにキスを繰り返すと、ようやくわずかな距離から視線をかわしあう。 そうしている間に、ミレイユの両手の指は霧香のさらさらとした黒髪を掻き乱し、霧香の指先は、ミレイユの金色の髪に覆われた背中の、儚い三角を描く肩甲骨を探し出していた。 「ベッドに、行きましょう…ミレイユ」 浮かされたような声。ほとんど声にならない声で。それでも瞳はしっかり開けて、ミレイユの視線を捕らえた。 結ばれた悪戯っぽいまなざしは、酔いのせいなのか少し危うげに濡れている。それとも尽きない誘惑に。 覗きこむ霧香の黒い瞳に浮かぶ柔らかな情をミレイユは受け止めて、もう一度小さな接吻を愛しい口唇に落とした。 眩しげに揺れる睫の動きを見ながら、返事は与えずに痩せた体躯を膝から降ろし、ふたりで手を取り合いベッドに向かう。 最初から、今もいつもひとつのベッドで一緒に眠る。 背を向けあって横になっても、向き合って抱き合うときも、その場所はふたりだけのものだから。 結んだ指先を離すのが嫌で居間の灯りはそのままに、ベッドへと短い道行きを楽しんだ。 整えられた寝台にたどりつくと、ミレイユはさすがに少し気が緩んだのか、軽く息をつきながら先に敷布へ沈む。 そして。 「ミレイユ?」 わずかな沈黙のあとの呼びかけには、健やかな寝息だけが返ってきた。 やっぱり、というより予定通りと言うべきかも知れない。 霧香は、ミレイユが部屋着を身につけたままなのはどうしようかな、ともう少し困惑を引き伸ばしてみる以外、あまりすることはない。 とりあえず布団をかけてあげるのは基本だ。 まぶたを閉じて、幼い寝顔。安らかな呼吸。 こんなときだけ年齢相応の、そして、彼女が普段は内に潜めて隠している優しい微笑。 霧香がそっと触れると、その気配に意識もなく反応して、薄く幸せそうな吐息を漏らした。 それだけで、霧香はなんだかひどく満たされた気持ちで、胸がいっぱいになる。 「ミレイユ……大好き」 白く浮かびあがる額に、柔らかな頬に、そして、愛しい口唇に。 接吻を落とすと、霧香は暖かなミレイユの隣に自分ももぐりこんで、瞳を閉じた。 いい匂いのする金色の波に頬を寄せる。 おやすみなさい…その声は胸の内で、そっと夢の中にいる愛しい人に捧げて。 END Jack Rose:リンゴから作るアップルブランデー“カルヴァドス”を使ったカクテルの名前。 その名前の通り、薔薇色をしている。 |